2019年10月14日月曜日

挑発的で論争を呼ぶ作品を展示する美術館の自由は確保されるべき。

アートという「避難所」が消えた世界は 小田嶋 隆 コラムニスト 2019年10月11日 



 言うまでもないことだが、「表現の自由」なる概念は、作品の出来不出来や善悪快不快を基準に与えられる権益ではない。その一つ手前の、「あらゆる表現」に対して、保障されている制限なしの「自由」のことだ。

 表現の自由は、不快な表現や、倫理的に問題のある作品や、面倒臭い議論を巻き起こさずにおかない展示についてこそ、なお全面的に認められなければならない

・・・時には社会に対して挑戦的であったり否定的であったりする内容を含むからこそ、アートは社会への批評的な位置を確保できているというふうに考えなければならない。

 またしても、わかりにくい話をしている。

  これは、美術館に通う習慣を持っている人ならある程度は共有している感覚だと思う・・・・ 

趣旨には賛成だが、多少混乱があると思う。

 芸術作品は実人間に対する犯罪行為が含まれていなければなんでもあり。

しかし、作品の展示は、場所によって制限をうけうる。

 エロ漫画の表紙やスカトロの写真なり絵画のようなのが、居住区で、子供もよくみるような場所に、でかでかと看板にあったら、住民はその展示に反対の声をあげてよいし、スポンサーがそれに応じて展示を止めたとしても問題ない。
 かりに景観を損ねるとか、教育上よろしくない、とかの理由で、法的に規制することも憲法違反にならないんじゃないか、そこまで表現の自由を認める必要はない、というのが私見。

 しかし、美術館というのは、そういう、挑発的で、論争を呼ぶような作品をも展示する自由があるべき場所であり、その自由は守るべき。

 展示を認めた上で、否定的な評価をすればよいのである。

 ヘイトスピーチや慰安婦ポルノの作品には左翼が、昭和天皇の写真を燃やす作品には右翼が理由を述べて最悪の評価をすればいいだけの話。


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