2020年2月2日日曜日

デリダは意味不明

mozuさんがリツイート
「正しく食べる」ことを学ぶpdf
「苦しみを感じる能力こそが、何らかの存在が平等な配慮を受ける権利を得るためにそなえていなければならない必須の性質である」[Singer 1993:57]。よってこの議論に即していえば、脊椎をもった動物は、苦しみを感じうるという点ではヒトと共通しているので、殺してはならないということになる。  あるいは、シンガーによれば、自己意識をもっているかどうかを基準として、動物とヒトとの境界線を引くことも不可能である。というのも、知能に重度の 障害を抱えていて、その点では動物以下だという人々もいるからである。より知的なもの、人間らしいものを保護すべきだとする主張が真であるならば、知 的に劣ったヒトのいのちよりも、高等動物のいのちを大切にすべきだということになる。私たちの社会では、いかなるヒトの殺害も原則的には禁止している のだから、少なくともより知能の高い動物の致死を禁止することもできる。ならば、動物を食べなければ、つまり菜食主義者であれば、私たちは「正しく食 べる」ことになるのだろうか。  

デリダはこの点に関して否定的である。菜食主義者であっても、キリスト教聖餐に代表されるような象徴的なカニバリズムの文化のなかで、あるいはそ のようなカニバリズムに基づいて構築された社会システムのなかで生活しているのであって、彼らはある意味で「人間さえ食べている」[Derrida 1992:295]の である。また、「反動的で強迫的な菜食主義は、つねに、否認、反転ないし抑圧というかたちで、カニバリズムの歴史に書き込まれる」[Derrida 1992:295]。 菜食主義は、つねに、肉食主義への嫌悪のもとで成立しており、肉食主義に対するアンチテーゼでしかない。菜食主義は肉食主義に依存しており、肉食主義 なき菜食主義は存在しないともいえる。さらに、私たちは、(少なくともはじめのうちは)欲望を抑制することなく菜食主義の立場に立つことができないし、 菜食主義者は、自らの欲望を抑圧しきれず肉をむさぼる者に対しては、われ知らずのうちに、軽蔑の目を向けてしまうこともあるだろう。菜食主義は、嫌悪、 抑圧、軽蔑といった否定的な衝動を構造的に自らのうちに抱え込まざるをえないのであって、動物とヒトとの区別なきユートピア的な発想として、菜食主義 を単純に肯定し、称揚することはできないのである。

 以上のような理由で、デリダに従えば、菜食主義であっても「正しく食べる」ことにはならない。つまり、シンガーのように「何を食べるべきか」という問 56 石 村 華 代いを立て、「食べてよいもの」と「食べてはいけないもの」のあいだに分割線を引くことはできないし、デリダはむしろ、そうした「二項対立を生むことに対して異議を唱えている」[Derrida 1992:299]といえる。
シンガーの議論はわかるが、デリダのは全く意味不明。 

 むかし、デリダの意味不明の言説を振り回してインテリぶっていた人たちがいたが・・・いま、なにやってんだろう?

 未開社会では呪術師がわけのわからないまじないの言葉を使って権威を保っている、みたいなことをレヴィストロースだかが言っていたように思うが、あの時代のインテリはまさにわけのわからない言葉を振る舞わしていた呪術師のようなものだった。

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