これは、とてもおもしろい論点だよねええ。『男だからスーツにネクタイ』という、トランスの元女が言う、『LGBT』を学ぶ話は矛盾が良くわかって良い。ダグラス・マレイが言っているように、ゲイは『男っぽい男だけが男ではない』という運動だったのに、トランスは『男っぽい男が男だ』という全く反対のことを言う。https://t.co/LFFF9Pta37— buvery (@buvery) February 1, 2020
LGBT関係の記事を読んだ印象だと、トランスの子どもたちが3歳位ですでに違和感をもつ。それはトランス男子なら、親はおれに女の子の格好させるけど、おれは男だぜ、男の子の服が着たいし、野球だってやりたい、髪型だって・・・・というように、男女の服装、遊び、役割が違う社会を前提として、生物的に割り当てられた役割とは別の社会的性別を演じたいわけだよね。
他方、男女の服装や役割の垣根を打破し、男らしさ、女らしさの固定観念を破壊しよう、というのが時代の潮流。
そういった男や女についての固定観念がまったくない社会だと、トランス男性、トランス女性という観念自体が消滅していくかもしれないね。
記事のトランス男性は、男性の服だからではなく、これが、「わたしに似合いそうだから着る」ーーーただ、それだけの話しになるかもしれない。
『LGBT』という括りが米国での政治的なパッケージであって、文脈の違う文化では意味不明というのが本当のところ。次には最も受け入れがたい主張、『フリチンだが、心は女だから、女湯へ入れろ』式の主張が出てくるだろう、とマレイは言うけれど、おそらく正しいだろう。— buvery (@buvery) February 1, 2020
心が女だから、というより、そもそも、男女別の風呂がおかしい、混浴にすべき、という主張があってもいいわけで、チンコがある身体というのが、特定の場所にホクロがある程度の個性にしかならない社会の発展だってありえる。
職場において、男女混合が正当であるなら、トイレでも風呂でもそうなっていくのが理屈の上では合理的ということになるのではないだろうか?
しかし、現実的に、どうなっていくかは、特定の歴史と風習を前提とした社会の構成員がきめていくしかない。
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