— suzuky (@suzuky) 2019年12月18日パラッと読んだが、ほとんど賛同できない文章だな、わたしには。
ちなみに私は怒りん坊である。
怒りを感じるのはいいとは思うのだが、それで怒鳴ってしまうことがある。
怒鳴ればスッキリするか、というと全然スッキリしない。めちゃくちゃ後悔する。
怒鳴らず我慢すれば、いいか、というと、これまた、悔しいイメージが何日かまとまりついてスッキリしないのである。
それでも、理性では、我慢するほうが怒鳴るよりいいと思っている。。怒鳴ってしまえば、周りがひくし、怒鳴った相手がそれでよくなることもない。
「アンガーマネジメント」だとかいう言葉に関連する書籍が、この数年、一貫して高い売り上げを記録している事実を見ても明らかな通り、われわれの社会は、「怒り」を異端視し、敵視するモードで推移している。何冊か読んだが、今一番気に入っているのが、
When you are angry be silentという言葉。ごちゃごちゃしたテクニックより、単純で一番いい。
空気を読まない寅次郎が、立場や儀礼から外れた振る舞いを敢行することで、権威主義者は顔色を失い、気取り屋は顔をしかめ、間に立つ人間は立場を失い、寅の将来を案ずる妹と血縁の者は、ただただオロオロするという、そこのところの悲喜劇が、物語に血肉を与えている。寅さんの振る舞いは当時でも常軌を逸していた。だから、笑われるのだし、だから、人によっては、顔をしかめられていた。ただ、寅さんをよく知る人は、寅さんの純粋さ、やさしさ、愛らしさも理解していたから、「困ったやつだ」と思ってゆるしていたのである。
じっさい、妹のサクラの見合いの席で酔っ払って下品なジョークを連発する寅の姿は、平成のスタンダードからすると
「最悪」
以外のナニモノでもない
さくらだってそう思ったわけだろう。「最悪のおにいちゃん」ただ、さくらは兄の違う側面を知っていたし、そもそも見合いに乗る気じゃなかったし、ひろしといっしょになりたかったわけで・ ・・
ただ、欠点だらけの昭和の社会の中で、一つだけ好もしい点を挙げるとすれば、それは他者への寛容さだったということは言えるように思うのだな。
昭和の人間は、おしなべて自分勝手だった。ついでに自分本位でもあれば、無神経かつ無遠慮でもあった。
寛容だったのではなく、横暴でガサツの男がのさばっていられた時代だったのだろう。周囲は、寛大ではなく、内心我慢していたのである。
現代の日本人は、自分が他人に迷惑をかけることを死ぬほど恐れている一方で、他人が自分に及ぼす迷惑を決して容認しようとしない。
この点においてのみ言うなら、私は、昭和の社会の方が住みやすかったと思っている。まあ、他人に迷惑をかけることの多い人間にとっては、ということなのだが。
ということはないな。昭和は、仕事をするために女性が赤ちゃんを背中におぶっていた時代である。現在、乳母車を電車にのせて、怒っているのは昭和のおっさんだろう。
寛容さ、という意味では、細かくあげられないが、いまのほうが寛容になっているとおもうよ、おれは。
最後に、どうして他人の怒鳴り声を聞き流す態度を好ましく思うのかについて、簡単に説明しておく。納得していない読者がたくさんいると思うので。・・・・
その後の文章もパラッと読んだが説明になっていない。
不正に怒り、不正について議論を尽くすことは何も悪いことではない。
反対して、己を貫く人は好きだ、おれは。
主張し、反対し、議論することは、いいことで、どんどんやるべき。
ーーーしかし、怒鳴っては駄目なんだよ
ハマコーや田原総一朗のような政治家や評論家はもう要らないんだ。
怒鳴られて気分のいい人はいないし、怒鳴られて反省する人もほとんどない。
怒鳴っているのを聞いて気分のいい人もいない。
昭和の時代でも「まあ、まあ、よしなさいよ」と諭されていたのである。
諭されなかったとすれば、一部のおっさんたちがのさばっていられたからであろう。
自分は、はやく怒りん坊から脱皮したい、と心から祈っている。
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