2022年10月25日火曜日

情動論(1)

NUSSBAUM の U P H E A V A L S OF T H O U G H Tを読んでいて彼女の引用している感情論、情動についての理論に興味をもってちょこっと調べてみた。

心理学におけるEmotion の定義もいろいろあるようで、心理学の辞書によると、
Cambridge

emotion
n. A transient, neurophysiological response to a stimulus that excites a coordinated system of bodily and mental responses that inform us about our relationship to the stimulus and prepare us to deal with it in some way 

Oxford
emotion 
Any short-term evaluative, affective, intentional, psychological state, including happiness, sadness, disgust, and other inner feelings 

A M E R I C A N  P S Y C H O L O G I C A L  A S S O C I A T I O N 

emotion n. 
a complex reaction pattern, involving experiential, behavioral, and physiological elements, by which an individual attempts to deal with a personally significant matter or event. The specific quality of the emotion (e.g., fear, shame) is determined by the specific significance of the event. For example, if the significance involves threat, fear is likely to be generated; if the significance involves disapproval from another, shame is likely to be generated. Emotion typically involves feeling but differs from feeling in having an overt or implicit engagement with the world. 

岩波 心理学小辞典 宮城音弥編

異性をみたとき,われわれは,背の高さ,頭の形,髪の色など
を認める(認知*)だけでなく,美しい, みにくい,感じがよい,感じが悪いなどというようにく価値づけ>をする. このような主体の情況や対象に対する態度あるいは価値づけをく感情>という.

 

こんな感じ

 ”The Routledge Companion to Philosophy of Psychology” (PP "emotion")のemotion の記事には、”Emotions as social constructions” ”Emotions as biological phenomena”” Emotions as cognitions”” Emotions as embodied appraisals" などの学説が紹介されている。

 感情も社会、文化の影響も受けるし、進化論的に動物との共通性もあるし、事態のある種の認識的評価が情動を構成する場合も多いし、また、そうした事態の評価に加えて、身体的状況も感情に影響することからすれば、どれも決定的に間違っているとはいえまい。

 細かく言えば、例えば、肉体のない天使も愛情をもったり、また、同じく肉体がないお化けも「カッカと」する感覚なしに怒ったり、恨んだりするだろうから、感情に感覚や身体的条件は不要かもしれないが、・・そこらへんは細かな議論になるのでおれのような素人にはどうでもいい。

  NUSSBAUMは、LAZARUSを引用するんだけど、その著作の、”Passion and Reason”(PR) や”EMOTION AND ADAPTATION”(EA)で、反射と感情的反応の違いについて面白い言及している。

EA 51

However, it is not uncommon to come upon a young deer who "freezes" in the middle of the road, an innate reaction to danger, as I approach in my car. Freezing is quite useful when there are predators around, because it is hard to notice a deer that is motionless in the tall yellow-brown grass. However, though it is an innate reflex, freezing in the middle of the road is not useful, especially if the position is held too long or occurs at night when cars move faster and visibility is reduced. 

 反射ってのは決まった環境にきまった反射する場合には役立つだけど、ちょっと環境が変わってしまうとその固定した反射では適応できずに、かえって危険な目にあってしまうわけだね。「わっ捕食者が来た、じっとしていよう!っと」というのは森の中ではいいかもしれないが、自動車が走る舗装された路の真ん中で自動車が来たからといって身動きしないで固まっていたらかえって危ない。その点感情なら「おっ、怖っ、やべえ、逃げよう」となるし、無意識的反射は固定されているが、抑止も含めてそれよりも自由度も大きいんだろうね。


a criticism levied at biological theories is that they do not or are unable to distinguish emotions from motivations (including certain desires). if the distal function of emotions is the facilitation of solutions to certain classes of adaptive problem, solutions that are implemented by the more proximal function of motivating behaviour, then how are emotions to be distinguished from motivational states such as hunger, thirst, and sex drive, which also fulfil such functions, and which also involve bodily states of affairs and representations thereof? (PP "emotion")

 感情が環境からの問題提起に対する適応反応だとすると、空腹や渇望などの生理的欲求とどう違うのか、とも批判されているようであるが、生理的欲求は肉体内部の平衡作用の問題であるのに対して、感情・情動は主体と環境世界を含めた平衡作用の問題とみるべきであろう。

ちなみに、 廣松渉 にも表情論があったよな、と思って、みてみると、

存在と意味第二巻 p6


直裁的な体験に展らける世界現相は、決して唯単に認知されるのではなく、「表情価」とも請うべきものを"帯びた〃相で感得される。如実の原基的体験相においては、森羅万象が一種の表情性を帯びている。・・・
右の提題は、今日の心理学においては定見と称して大過ないはずであるが、若干の敷術を挟んでおくべきかもしれない。

・・・・環界的現柏が表情性を帯びていると請うのは、それらが一定の情動興起性・行動誘発性を帯びた相で感知されるということの請いである。或る種の理論的反省の立場からは、対象的現相が情動性・誘動性を帯びた相で見えるのは「感受主体たる自分自身の裡なる情動や傾動が〃投射・投入〃された一種の錯覚たるにすぎない」と評されるかもしれない。だが、当事者の直覚的な体験相においては環界的現相が一定の情動興起性・行動誘発性を帯びた相で感得されるということ、これは紛れもない一事実である。

世の論者たちは、とかく、知情意の三分法に泥んでおり、感性的体験に関して、「まず知覚的認知がおこなわれ、それにともなって情動的興奮が生じ、-そこで一定の即応的行動が起始する」といった三段階の継起で考ぇがちである。われわれとしても三段階の継起相で体験される場合があるということは否認しない。しかし、反省的・事後的な区分は別として、直接的な体験にさいしては、そのような継起相で意識されるのはむしろ特別な場合であって、一般には、当の三契機が同時相即的に体験される。時によっては、例えば、まず急ブレーキを踏み、ゾツと恐怖感がこみあげ、そこで、横切って走り去る猫の姿が見える、といった逆の順序で意識にのぼることさえもある。
知覚→情動→行動という継起性は、反省的定式ではありえても、体験意識相の常態を記述するものとは認めがたい。
 われわれは、情動性というとき、喜怒哀楽といった格別なものにばかりでなく、情調・気分といったものにまで留目する。また、行動性というとき、いわゆる有意的な行動などの高次の行動ばかりでなく、反応性向といった次元をも配視する 

こんなかんじ。廣松らしい論述である。主体と環界を統一的にとらえているし、情動に加えて、行動まで視野に入れているところにも注目しておきたい。

 この叙述自体はいいのだけど、しかし、これでは、怒り、嫌悪などの情動が、環境世界を主体がいかに評価した際におきる情動なのかの分析には欠けている。そこに心理学の感情=認知・評価論の意義があるといえるかもしれない。

  NUSSBAUMにもどると、彼女の本の冒頭には、プルーストから次の引用がされている。

It is almost impossible to understand the extent to which this upheaval agitated, and by that very fact had temporarily enriched, the mind of M . de Charlus. Love in this way produces real geological upheavals of thought. In the mind of M . de Charlus, which only several days before resembled a plane so flat that even from a good vantage point one could not have discerned an idea sticking up above the ground, a mountain range had abruptly thrust itself into view, hard as rock - but mountains sculpted as if an artist, instead of taking the marble away, had worked it on the spot, and where there twisted about one another, in giant and swollen groupings, Rage, Jealousy, Curiosity, Envy, Hate, Suffering, Pride, Astonishment, and Love.


 Marcel Proust, Remembrance of Things Past 


 この不安がシャルリュス氏の頭をどれほど動揺させ、またそのことによっ て一時的にその頭をどれほど豊かにしたかは、とうてい計り知れない。このように恋 心なるものは、思考という地質に正真正銘の隆起をひきおこすのだ。シャルリュス氏 の頭は、数日前には真っ平らな平原にも似て、どれほど遠くにも地表からとび出てい る一塊の思念すら認められなかったのに、いまやその頭のなかに突如として岩のよう に固い山がいくつも聳え立ったのである。山といっても、だれか彫刻家がそこから大 理石を運び出した山ではなく、その場で大理石に鑿をふるったかのように彫刻された 山々で、そこに「憤怒」「嫉妬」「好奇」「妬み」「憎悪」「苦悩」「傲慢」「恐怖」「愛情」 などの途方もなく巨大な群像が身をよじっているのだ。 


失われた時を求めて 9 ソドムとゴモラ Ⅱ(2-3)岩波文庫 p504

  シャルリュス男爵がモレルに熱をあげる様子を描写した場面である。

 思考の隆起が情動だ、というわけで、それが彼女の本のタイトルになっている。

NUSSBAUMはセネカなどの影響を受けた感情=認知・評価論者なのである。
 今度は、NUSSBAUMやLAZARUSの本から個々の感情・情動について面白そうな部分を拾っていきたいと思っている。



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