石原慎太郎氏がオフレコで私に伝えた「昭和天皇の戦争責任」〜中曽根康弘氏、渡邉恒雄氏と語り合ったこと
2022年2月6日
「中曽根さんと渡辺さんと私で会食しているでしょ。そのとき毎回話題になるのは昭和天皇の戦争責任のことなんですよ。昭和天皇は少なくとも退位すべきだった。この意見で毎回、三人は一致するんですよ」
天皇制は残すにせよ、昭和天皇は退位すべきだ、という意見は当時からあったよね。
石原氏
「その時代の年齢の少年というのは多感ですけどね。そういう点ではね、私は、戦争とそれから戦後の混乱っていう非常に多感な時代に、得がたい体験をしたと思いますよ」
「ある意味じゃ、私たちの世代というのは、忘れられたっていうけど、失われた時代、世代という感じはします。そういう点で私はね、その生き残りの1人として大事なメッセージを残していきたいと思ってますけどね」
「僕はいろいろ思い出すことあるんだけども、昭和というのは嫌な時代だったね。国民にとっては。非常に残酷な時代でしたね。戦争ばっかりしててね。私が(一橋)大学の3年生になって法学部の国立の法学部の方に移ったときに、法学部の建物のトイレの中に、先輩たちが残した落書きがありました。これは学徒動員で駆り立てられて死んでいった先輩たちが、書き残した落書きでしたけれども。非常にそれは鮮烈で、なんて書いてあったか。『俺は絶対に天皇のためには死なない』と書いてあった。それは天皇の名前で行われた戦争でね、どれだけたくさんの人間が無駄な死に方をしたか。非常に不思議な国でしたよ。狂ってて、日本はね」
■戦後の屈辱
石原氏
「やっぱり戦後の屈辱。僕は痛感しましたね。私はどういうつもりだったかわからんけども、父親が東京の軍事裁判(極東国際軍事裁判)のね、切符を取ってくれたんでね。市ヶ谷の法廷に行きましたよ」
「でね、雨の日で高下駄履いていったら、階段をカタカタ2階にのぼっていったら、踊り場にMPが立っていてね、僕の方を捕まえてどやしつける。それで何を言われたのかわからないから、英語で。そしたらお兄さんがね、『履いてるゲタがうるさいから脱げ』と言っている。と。それで私が脱いだら、いきなりMPが、その脱いだゲタをバーンと足で蹴っ飛ばして払った。僕は、無くなったら困るから濡れた床を這っていってゲタを集めて合わせて、濡れた床を裸足で2階まであがって傍聴席に座りましたよ」
飯塚コメンテーター
「どう感じた? 裁判の中身はともかく」
石原氏
「それは屈辱ですよ。屈辱。少年なりにそうですよ。それこそまさに自分だって戦争で死ぬつもりでいたんだから。国家っていうのはやっぱりそれはみんな背負っていた。ある意味でその美しい人間像ではあったと思うけどね。それはやっぱり考えてみると怖い話ですよね」
右松キャスター
「GHQの占領下、石原さんが住んでいた逗子市も、アメリカ兵がやってきた光景があったと」
石原氏
「ある時ね、終戦の1年後の9月暑い日でしたけれども、学校から帰ってきて、逗子の小さな商店街を歩いていたらアメリカの若い兵隊が、アイスキャンデーをしゃぶりながら大手を振って歩いて行く」
「買い物に来ている奥さん方がね、身を潜めて軒下に身を隠している。それを見ると愉快なもんだから、若いアメリカの兵隊が肩で風きって歩いてきた。道の真ん中を。みんな日本人は歩けないんですよ」
「僕は、こしゃくだからね。彼らと同じように真ん中を歩いて行ったら、いきなりすれ違いで殴られた。彼らのしゃぶっていたアイスキャンディーで殴られた。アイスキャンディーが溶けて、砕けましたけどね」
「それがたちまち伝わってね。次の日に学校に行こうと思ったら、同じ電車に乗るおじさんたちが、『みんな大丈夫か?』て気にしてくれてね。噂では殺されたとかケガさせられたっていう話があったんだけども。それから1週間ぐらいたったら、校長室に呼び出された。校長じゃなしに、教頭とあと3人ぐらいの先生がいたけど、その先生たちが『お前なんてバカなことしたんだ』と。『そんなアメリカに突っ張って、道をあけたらいいじゃないか。突っ張らずにね。迷惑が学校にかかったらどうするんだ』っていうからね」
「僕のいた湘南中学というのは海軍兵学校の予備校みたいでね。ほとんどの人間たちが海兵に行ったんですよ。私もそのつもりで、入学試験のときに口頭試問で『君は将来何になるか?』と聞かれたら、『外交官』と。『外交官ってあんまり好ましくないから、海軍士官になりますと言え』って、言わされて入ったの。そういう学校でした」
「ですからね、僕は先生にくってかかった。『あなた1年前にね、国のために立派な士官になって死ねと言って教えたじゃないか。それが今になってね、アメリカになんでペコペコしなくちゃいけないんだ』と言ったら、そのときにたまたま、戦争から帰ってきたばかりのお坊さんの、私の担任になった立派な先生がいてね。みんなを抑えて、『みなさん、これは私に任せない』と。僕1人を抱いてね。『石原ね。お前も辛いけど俺も辛いんだ』『戦に敗れるっていうのはこういうことなんだよ。我慢しなくちゃしょうがないんだ。お互いに我慢しよう』と諭してくれた。それですっきりしましたけどね。そういう経験がずっとありましたよ」
■戦後70年談話について
右松キャスター
「政府の公式見解となる戦後70年の安倍首相談話では、過去の首相談話と同じく、日本が先の大戦をめぐる『おわび』や『侵略』などのキーワードを網羅した上で、未来志向の表現を盛り込む内容となった」
「飯塚さんは、安倍総理が発表した戦後70年談話に関する有識者会議メンバーでしたが、当時歴史認識の議論は?」
飯塚コメンテーター
「先の大戦での日本の行為を『侵略』と位置づけるかどうかについて委員の間でも見解がわかれたが、報告書では日本が満州事変以後、大陸へ『侵略』を拡大したと認定した。石原さんは、5年前の戦後70年談話をどう評価している?」
石原氏
「卑屈だね、卑屈。日本の降伏の仕方が間違ったんですよ」
「ドイツは日本と同じように最後まで戦ったが、降伏する時に3つ条件をつけた。その条件はね、ひとつは戦後の、要するにドイツ人の教育はドイツ人がする。それから、新しい国の憲法は自分たちで作る。それからどんなに少なくとも国軍は持つ。その3つは飲まれないと俺たちは死ぬまで戦う、といって、結局連合国側は飲んで、ドイツは降伏を許されたんですよ」
「彼ら(ドイツ)はその通り国軍を持った。自分たちの憲法を作った。日本人の『憲法』という憲法なんて、アメリカ人が書いたんじゃないですか。あなた方は読みなおしたことはありますか?前文なんて日本語になってない」
「助詞の使い方も5つも6つも間違いがありますよ。問題がたくさんある」
■日本の歴史を知らなすぎる
右松キャスター
「石原さんは『昭和は残酷な時代』だと。戦後から今、先人から受け継いだもので社会ができあがっていると思えない。現代社会をどう見ている?」
石原氏
「やっぱり、若い人はうつつの出来事に夢中になってて、過去を振り返ることをしないし、あまりにも日本の歴史を知らなすぎますよ」
「有色人種のなかでこれだけの近代国家をあっという間に造った歴史の事例があるかということ。トインビー(英・歴史家)なんて、日本人がやたらに好きでね、日本人の近代化の歴史は世界史なんか奇跡だと言ったじゃないですか。なにも外国人に褒められたからありがたがるわけじゃないですけど、まさに奇跡ですよ」
「有色人種のなかでこれだけの国を造って、しかも日清、日露という大きな戦いで勝ち抜いて、最後は、アメリカ、フランスも、オランダも、要するに白人の国全体を相手にして戦って。敗れはしたが、それだけの歴史の造形をした民族は他にありますか」
石原氏の場合、多分、戦争責任、開戦責任というより、敗戦責任だろうね。どれだけ日本人、外国人が死んでも日本が勝利していたら、「戦争責任」云々はいわなかったのではないか?
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