Silence - The Deconstruction of Faithit was his faith that kept him from seeing Kichijiro as nothing more than a 12:21 lowly drunkard and it was his faith that enabled him to feel holy for it it is here that he realizes that to live an imitation of christ doesn't mean to die for your pride but to sacrifice it it isn't until Kichijiro for the final 12:56 time repents to rodriguez that he realizes that it was in the moment he let go of his pride and lowered himself down to the level of those who he thought were beneath him that he became the most like christ it was not when there was a separation between us or them but when those lines were blurred and became one that the voice of god was finally heard
lord i fought against your silence
i suffered beside you i was never silent
if god had been silent my whole life to this very day everything i do everything i've done
13:30
speaks of him it was in the silence that i heard your voice from this deconstruction of faith comes an authentic transformation in rodriguez spiritual life one that isn't rooted in the inherent pride found within the dogma of christianity but one that is free from it and more personal than ever his beliefs aren't determined by the church or his followers
遠藤周作の「沈黙」の解釈
自分がもっとも軽蔑していたような他人との区別の壁もぶち壊すことによって信仰は深まるんだ、と。
「敵を愛せ」というイエス・キリストも自他不二というか、自我の殻を突破して他の中に自己の大切な部分をみていたのかもしれない。
そういえば、吉次郎のモデルは遠藤周作自身だ、本人が言っていたね。
遠藤がよく引用するイザヤ書の一節
3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ3 He was despised and rejected by mankind, a man of suffering, and familiar with pain. Like one from whom people hide their faces he was despised, and we held him in low esteem.4 Surely he took up our pain and bore our suffering, yet we considered him punished by God, stricken by him, and afflicted.5 But he was pierced for our transgressions, he was crushed for our iniquities; the punishment that brought us peace was on him, and by his wounds we are healed.
これは、イエスの姿なわけだね。
(ちなみに"he was led like a lamb to the slaughter, and as a sheep before its shearers is silent" 「羊たちの沈黙」もここからくるわけ?)
で、イエスもそうだけど、マザーテレサなど、キリスト教徒の人たちも社会から見捨てられたような人たちの面倒をよくみる。
Jesus in His Most Distressing Disguise
これはマタイ25章
40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
“Amen, I say to you, whatever you did for one of these least brothers of mine, you did for me.”
マタイの中にそういう話があるんだね。
遠藤の神は決して誰をも見捨てない
「あなたから棄てられたからこそ-、ぼくは······人間から棄てられたあの人の苦しみが·······少しはわかつたんです」 「ちょっと、-そんな綺麗ごとを言わないで」美津子は傷ついた。大津を追いつめたい気持は更に強くなつた。 「すみません。でも本当にそうなんです。ぼくは聞いたんです。成瀬さんに棄てられて、ぼろぼろになつて·····行くところもなくて、どうして良いか、わからなくて。仕方なくまたあのクルトル·ハイムにスって跪いていた間、ぼくは聞いたんです」「聞いた?···何を?」 「おいで、という声を。おいで、私はお前と同じように捨てられた。だから私だけは決して、お前を棄てない、という声を」
少年の時から、母を通してぼくがただひとつ信じることのできたのは、母のぬくもりでした。母の握ってくれた手のぬくもり、抱いてくれた時の体のぬくもり、愛のぬくもり、兄姉にくらベてたしかに愚直だったぼくを見捨てなかったぬくもり。母はぼくにも、あなたのおつしゃる玉ねぎの話をいつもしてくれましたが、その時、玉ねぎとはこのぬくもりのもつと、もっと強い塊り-つまり愛そのものなのだと教えてくれました。 (深い河 201)
この母親のイメージ。
神の原型が親のイメージというのは遠藤独自ではない。
「灯が暗いから近よつてください。この女神はチャームンダーと言います。チャームンダーは墓場に住んでいます。だから彼女の足もとには鳥に啄まれたり、ジャッカルに食ベられている人間の死体があるでしょう」 いく。江波の大きな汗の粒がまるで泪のように蠟燭の残骸が点々と残つている床に落ちて 「彼女の乳房はもう老婆のように萎びています。でもその萎びた乳房から乳を出して、並んでいる子供たちに与えています。彼女の右足はハンセン氏病のため、ただれているのがわかりますか。腹部も飢えでへこみにへこみ、しかもそこには蠍がみついているでしよう。彼女はそんな病苦や痛みに耐えながらも、萎びた乳房から人間に乳を与えているんです」・・・・ 「彼女は······印度人の苦しみのすべてを表わしているんです。長い間、印度人が味わわねばならなかった病苦や死や飢えがこの像に出てます。長い間、彼等が苦しんできたすベての病気にこの女神はかかっています。コブラや蠍の毒にも耐えています。それなのに彼女は······喘ぎながら、萎びた乳房で乳を人間に与えている。これが印度です。この印度を皆さんにお見せしたかつた」 (深い河 235)
Chamunda の英語版をみるとちょっとイメージが違うんだが、それはともかく、こうして自分も苦しみながらも苦しむ人たちの幸福を願い、また、そのために自分を捧げる母親のイメージが遠藤周作の神のイメージなんだろうね。
"I felt a sort of energy flow through me that I had never felt before — as if I was a part of something greater than myself," he says.
これは重要だね。
のけものにされていた若者がネオナチに仲間入りすることで自分が単なる自分ではなくて、より大きなもの一部と感じるようになり、自分のなかに活力が貫通するのを感じた、と。
生きがいとか、生きる意味とか、死ぬ意味とか、結局自分よりなにか大きなものの一部であることによって与えられる。
前にもザッカーバーグ氏の演説を引用したかもしれないけど、“Purpose is that sense that we are part of something bigger than ourselves, that we are needed, that we have something better ahead to work for. Purpose is what creates true happiness.”
“When John F. Kennedy visited the NASA space center, he saw a janitor carrying a broom and he walked over and asked what he was doing. The janitor respond: “Mr President, I’m helping put a man on the moon.”
自分が人類が月にいくプロジェクトの手伝いをしていると自覚すると、誇りというか生きがい、やりがいが出てきた清掃員の話。
It started out with Clark [Martell, the former leader of Chicago Area Skinheads] and several of the older skinheads in this group appealing to my sense of pride, of being European, of being Italian. And then it would move on to instilling fear that I would lose that pride
欧州の白人としての誇りをもってしまったわけだね。
グループにそった思考する宗教の信者、ナショナリストや出羽守は阿呆だという人もいるが、宗教組織や民族性がその人達のアイデンティティ、その存在価値の深部に関わることなので、その扱いは難しいし、脱出するのも難しい。
「沈黙」では個人のレベルでのロドリゴとキチジローの自他の壁の突破説いていたが、組織やグループ間でもその壁が突破されないとうまく行かない。
言うは易しだが、自分が卑しいと軽蔑してきた人たち、自分が敵と思ってよく思っていなかった人たちを愛する、というのは現実にはなかなか難しいところではないか?
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