破産手続きを頼んで3年近くも弁護士に放置されている友人が弁護士事務所の事務員さんと面談していることを忘れている。私のほうが勘違いしていると確信している。彼は、障害1級をもらっている。
「面談のために、家計簿一緒につくったでしょう?あれはなんのために作ったの?」と言ってもわからない。自分の記憶が正しいと思っている。事務員さんに電話して聞いてみれば、と言っても聞かない。自分の記憶が正しいと思っている。
彼があまりにも確信をもっていうので、私の記憶違いかと思って、法律事務所に電話して聞いてみるとやはり会っている。
私が事務員さんに電話したら会っているそうだよ、と言ったら動揺して、ようやく事務員さんに電話したが、その後、「会っていません」と断言しに、私に電話してしてきた。「会っていません」という本当に強い口調だった。「会ってない、と言われたの?」と聞くと、そこは答えなかったが、○○さん(私の名前)の指図を受ける必要はないじゃないか、云々と言われた、と。どうも私が嘘をついていると思っているようだ。
ところが、昨日、ラインのメッセージのログが出てきた。彼が私に弁護士事務所の事務員さんと面談するから、破産手続き用の家計簿を作ってほしい、と書かれたメッセージがでてきたのである・・・見せるとなにか口ごもっていたが・・・あれで彼は納得したかどうか?
そういえば、
The problem with the world is that the intelligent people are full of doubts, while the stupid ones are full of confidence. 両方ともネットではアインシュタインの引用として流通しているが、それは違うらしい。発言者はアインシュタインじゃないが、しかし、なるほどなあ、と感心していた引用だった。
そういえば、ウィトゲンシュタインがプライベート言語への反駁で
“As if someone were to buy several copies of the morning newspaper to assure himself that what it said was true.”(§265)
とか言っていたが、記憶の正誤を確認するのに同じ記憶を頼りにするのはまさにこれだ。
理屈の上では、こうした引用がいう通りなのだが、しかし、自分の友人がそうした世界から抜け出せないのを間近にみると、なにかとても悲しくなってくる。
自分の記憶違いでなかったと証明できてよかったと思う反面、証明なんてする必要はなかった、むしろ彼を傷つけてしまったのではないか、さらに、彼を自分だけの世界に追い込んでしまったのではないか、という気持ちもある。
ゴミ屋敷で自分の世界に閉じこもる友人を思い、胸のあたりがとても重く感じて息苦しい朝である。
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