2020年7月12日日曜日

現実に似せることが芸術なのではない。


現在の米国リベラルを口パクしているんだろうけど、ひどい文章とは思わない。

 一番大きな理由は、すでにたくさんチャンスのある人が、もともとチャンスのない人から奪うべきではないということ。ヨハンソンは、わざわざこのトランスジェンダー男性を演じなくても、ほかにいくらでもオファーがある。一方でトランスジェンダーの男優にとっては、「自分のためにあるような役」と感じられる、生涯で一度来るか来ないかの役だ。だが、競争相手がヨハンソンでは、まず、かなわない

おれは雇用の問題は切実だと思うよ。トランスだからといって普通の役には雇用されず、トランスの役にも雇用されなかったら、2重にずるいと思って然るべきだと思う。

トランス男性に普通の男性役もちゃんとまわってくる社会ならトランス男性役を誰が演じようがまったく問題ない。

なお、記事は、作品の登場人物と似たような人、似たような経験を持った人が演じるべきだ、という思想を前提にしているみたいだけど、そこらへんは同意しない。

女が男を演じても、大人が子供を演じても、黒人が白人を演じて全然構わないと思う。

日本のアニメの場合女性が少年の声を演じることがおおいが、あれはあれで受け入れられているし、問題ない。
宮崎駿がプロの声優を嫌って素人にアテレコさせることがあるが、おれはプロにやってもらいたい。

アニメの声やセリフは現実にはそれほど似通っていないけど、それはそれはそれでいいんだよ。

そもそも芸術は現実のものまねでも、再現でもない。ものまねや再現になっている作品ほど退屈なものはない。

現実に対する独自の深い理解は必要だが、むしろいったん現実から離れて新しい作品世界を創造することこそが芸術であって、現実との関係でいえば、再現というより比喩なのである。

セーラームーンも東洋人っぽくないってツリ目で濃いめの色にした作品を作っていた人がいたが、あれも作品は現実に近いほどいいみたいな思想を前提としているが、やはり間違い。

ピカソの「泣く女」は現実に似ていないけど、逆に、激しく泣いている女の姿が強烈に伝わってくるじゃないか?あのモデルになった女の写真や動画を素人がとっても芸術にはならんのだよ。

フルチン女についていうと、これはこれから”また”変わっていくかもしれない、とは思う。だって、混浴ってかつて普通にあって、なにも問題なかったわけだから。

オリンピックのありかたも変わっていくかもしれんと思っている。勝ち負けに順位をつける、というタテマエからなんらかのルールは必要だろうが、男と女、健常者と身しょう者の垣根がなくなっても別にいいんじゃないの?

100メートル一番はやいやつを決めるーー男が勝った、義足つけたのが勝った・・・どうでもいいと思うんだけどね。

おれの頭のなかのオリンピックでは、人間とかヒョウとかカンガルーが100メートル競争やったり、クマが柔道大会でてもいいことなっている。「やっぱヒョウははええなああ」「クマも最近弱くなったなああ」みたいな・・


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