Moral Cruelty and the Left https://t.co/wEvD1ShLWP\
— mozu (@mozumozumozu) June 18, 2020
Shklar argued that we need to be afraid not only of physical cruelty committed by officials and police, but of the “moral cruelty” committed by those who claim to hate oppression.
Nietzsche saw Christianity and the post-Christian ideologies of liberalism, socialism, etc. as mechanisms of humiliation by which people were made to feel guilty, sinful, and self-doubting.
At the same time they allow self-described victims to pursue cruel vengeances against their supposed oppressors. They preach masochism to the strong and sadism to the weak.
White people in such contexts are asked—or required—to admit that they are culpable, that they lack ethical and epistemic authority, that they must listen to and heed the demands of victims of racism. They humiliate themselves, literally kneeling in propitiation.
Defending liberal democracy, Shklar claimed, will require us to confront Nietzsche’s powerful argument against the moral cruelty that liberalism seems to generate from within its post-Christian heritage.
キリスト教ってのは、人間に常に罪の意識を負わせて、贖罪するように迫るわけで・・・自分の犯した罪だけじゃなくて、人間の原罪まで背負わせようとする。この論理というのは白人一般に罪の意識を負わせるリベラルの論理と同じ構造なんですね。さらに、キリスト教ってのは、弱者、貧者が逆転勝利できるような物語を与えるわけで、弱き者、貧しき者が正義の側にいて、強きもの、富めるものに罪の意識を負わせて、ネチネチネチネチと責めまくる。
弱者にサディスティックに、強者はマゾヒスティックになるように説教する。
ニーチェなんかは、その手は桑名の焼きはまぐり、で、そうした価値観を突破していいんだ、と。ニーチェの解釈はいろいろありえるけど、それを、最悪に解釈するとヒットラーやスターリンのようになる。
人間を肉体的に苦しめるのまずい。しかし、人間に罪の意識を植え込んで心理的にネチネチやるのもまずい。かといって、罪の意識を取っ払って、力で凌駕するのもまずい。
じゃあ、どうするか。正義というのは、やっぱ、中庸というか、程々であるのが大事。
無実の人に物理的に暴力をふるってもいけない。
かと言って、白人に永遠に罪の意識を背負わせてネチネチやるのも残酷
かと言って、白人がずっと横暴を奮っていいわけでもない。
日韓関係に置き換えると、韓国は慰安婦問題で日本人に永遠に謝罪し続けろ、とやっている。
これはもうサディズムですね。でも、日本人がやったことを否定してはいけないのであります。これはちゃんと認める。でもって、被害者の方もそのサディスティックな側面、また、加害者の側面もあるのだ、ということを理解してもらう。
自分が被害者でしかないと思い込んでいる人は永遠にサディズムの快楽から抜けられないのであります。
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