深いね。日常生活ってのは、基本的に「賽の河原の石積み」で「シジフォス的苦悩」で、積んでも積んでも鬼が来て壊されるし、元の木阿弥じゃん!の絶望の学習性無気力に陥りやすいものなのだ。— 佐川・抜け首・なん (@nankuru28) 2019年11月19日
何かを、たとえば「愛」を積み重ねようとしてる人には、賽の河原の鬼と暮らすのは地獄なんだよね。
ぬけろんやると元気でる!って私が思うのは。 お互いの賽の河原の石積みを、愚痴り褒め合い「意味あるもの」と確認し合う「友人」だからだ。
しかし、友達や夫婦や社会で、「意味あるんだ」「すごいよ」と嘘つきあっても、無意味はいくら積み重ねても無意味じゃないかね?
愚痴りあい褒め合いながら、築きあげられた友情さえも、もろくも崩れ去り、あるいは、別れの時がくるのが人生。
もっとも、子供が砂場で山を作っては自ら壊し、また、作って遊んでいるように、石を山頂においてくること、石を高く積み上げることではなく、石を運ぶこと、石を積むこと自体を遊びのように自己目的化すれば、その空虚さから逃れられるかもしれない。
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