これは面白かったなああ。流れてきたけどみたら2011年の記事 (更新 元は1996年らしい)
リバタリアンに対する批判としてリバタリアンは個人というのを社会に無関係に存在しているように思っているがそれは違う、個人はつねにすでに社会的存在なんだ、という批判は昔からあった。
しかし、執筆者によると、その批判はあたらない、と。リバタリアンも個人は社会的存在であると認めているし、社会にとって共通の善なるものをちゃんと考えている、と。リバタリアンにとっての共通善というのは自由なんだ、と。
問題は義務をどう考えるか、だ、と。
リバタリアンは、他人に危害を与えていはいけない、と考えている。これは普遍的な義務だ、と。それ以外の義務は他人と約束した場合に生じる義務で、それ以外の義務は不当だ、と。
これに対して、コミュニタリアニズムは、以上の義務以外に、社会の構成員であることから当然に義務が生じる、と。リバタリアンは反対する。
また、共通善に関しても、リバタリアン以外の人たちは、例えば、政府による年金給付金を共通善といって社会保障の支払いを義務化しているが、しかし、政府による年金制度は不公平であり、民間によるものほうが公平で優れており、国民に選択の自由を与えるべきだ、とリバタリアンは主張するのである、と。
ーーーこれはこれで面白いですね。ただ、例えば、年金制度で現行の制度が公平でないとしても、リバタリアンによる制度・・・あるいは無制度のほうが公平かどうかは・・・わからんでしょうね。
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