2023年6月23日金曜日

”embrace the joy of being the most annoying person they've ever met”

 
 wiki 

 登校拒否している小学生の女の子に勧められた映画  


アマゾンプライムで観られた。

 勧めてくれた女の子も二宮くんのように前髪を目の下まで垂らしていた。

 二宮くんはトゥレット症、肉子ちゃんは発達障害っぽい、そして、キクりんは初潮を迎える・・・日本のアニメのいいところだね。



 他のお偉方のじじいも刷新すべき


 

 わかりやすい。

 
stop trying to please people who already don't like you and embrace the joy of being the most annoying person they've ever met

www

なるほど。



 
the pain would be unbelievable
やっぱつらいところだよなああ。 

 むかし手塚治虫の漫画だったとおもうんだが、その国を知るにはその国のホームレスを見よ、だか、ホームレスに対する人々の態度をみよ、みたいなセリフがあったな。

 
「70才以上からダンベルでトレーニングしても、筋肉はきちんとつきます。私の祖母は98才で寝たきりになりましたが、そこから毎日1時間半の筋トレを初めて、今は103才で片足スクワットができます」
筋トレだな。


   

 国によってウケる曲は違うんだね.

  


 他人の記憶にある「私」になんでそんな固執するのか・・・・いわゆる「私」ってそこにしかいないのかもしれんな。

 しかし、他人にとっての「私」以外にも「私」は存在するに決まっているのではないか?

  かつて、廣松渉がピランデルロの「真実は銘々に」(御意にまかす)を引用して

「私は私にとって(fur mich=私に対して)」とは、しかし、一体いかなることであるのか? 私は親に対しては息子であり、賽に対しては夫であり、子供に対しては父であり、生徒に対して は教師であり、医者に対しては患者であり:…・というように、他者に対してはその都度の役柄的ペルソナとして規定されてある。ところが、私は私に対して役柄的に関わるわけではない。 私が私自身に対して在る相というのは、まさにヘーゲルがいう意味での「あらゆる対-他存在の単なる抽象」 にすぎない。「私」の名にすら値しえないであろう。それは、ピランデルロ式にいえばniemand(誰でもない)・・・(哲学入門一歩手前 P201)

といっていた。

 ここらへんがおれにとって哲学の一番おもしろいところだね。

 仏教なんかはこの「無我」「無自性」を前提にもう一歩先に行く・・・・そこがまた面白いところなんだな。

 (因みに、廣松の見解にせよ、仏教の見解にせよ、欧米の哲学ではたぶん異端、主体や自我の存在はむしろ大前提になっているようなかんがある。)


 

私たちは何か大きな存在の一部であり、そこにはつながりがあり、居場所もあるということを思い出させてくれます」
これは決定的に大事なことだねーーーユーチューブで嫌韓、嫌中の人たちとの連帯感を深める、とかツイッターで烏合の衆の一部になる、なんてもあるのかもしれんね。

 

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