キリスト教世界では「悪の問題」というのがある。
例えば、幼児が強姦された上惨殺されたとする。
犯行前後、犯人以外に近辺に男がいた、という。
a) 男は犯行を知らなかったb)男は犯行を止めるほど強くなかったc)男も悪人だった。d)本当は誰もいなかった
なら、まあ、わかる。
しかし、犯行があることを知ってかつ、止めるほどの強さがあったのに止めなかったなら、彼は善人とはいえない。あるいは、善人だが、止めるほどの強さはなかったのかしれない。あるいは、善人で屈強な男だったが犯行については知らなかったのかもしれない。あるいは、そんな男はそもそも居合わせなかったのかもしれない。
いろいろありえるが、それが神だと、キリスト教の神については、
1)神は存在する2)神は全知全能、完璧に善也
といわれており、
3)悪も存在する。
ことも否定できないからややかしいことになる。
何冊か目を通したけど、議論がめちゃ細かい。
The Blackwell Companion to the Problem of Evil
A Brief History of Theodicy RENÉ VAN WOUDENBERG
p177 がよく要約している。
あ)神が悪を創造した
→悪は善の欠如 神の被造物はもとも善(Augustine)
い)神は人間に悪を選択させた
→神は人間に自由を与えた。人間が悪を選択した。(Augustine)
う)災害など人間が選択したのではない悪も存在する。
→この世はありえる世界のなかでは最善
存在するには十分な理由が必要だが、より良い世界になるための十分な理由がない( Leibniz )
→小さい悪がより大きな善のために存在する場合がある。
え)何の善にも貢献しない無益な悪も存在する。
神の計画について我々がすべて知ることができるわけでもない。
また、
→苦悩によって神との愛の関係を深める大切に目覚めることもある(Lewis)
→苦るしみがなければ、勇気も慈愛も発揮できない。(Ewing)
→他人から苦しみを受けることで自分が他人に与えてきた苦しみを悔い改める機会になる。
なお、最後のは Cambrige companion to the problem of the evil
Evil and the Meaning of Life John Cottingham から。
・・・・西洋人は・・・というか、キリスト教圏は・・・神にこだわるよなあ。
神がいても、いなくも、この世には、悪は存在し、不合理な悪の犠牲になった被害者や関係者の傷や混乱は、神がいてもいなくても、乗り越えていかなくてはいけない問題ではある。
0 件のコメント:
コメントを投稿