2022年11月7日月曜日

The Absurd -

The Absurd - Thomas Nagel.pdf - Philosophy 


 先日読んでた本The Death of God and the Meaning of Life で引用されていた論文

   
 youtube でも取り上げられている。


 The Death of God and the Meaning of Life の本の論評をさがしていたらみつけた記事 



トルストイの懺悔」 【復刻版】トルストイの「我が懺悔」p27-28
 疾病と死と は、今日にあらざれば明日私の愛する者にも私にも襲つて來るであらう。 (実際彼等は襲って來た)・そ して悪臭と蛆蟲との外には何も残らないだらう。私が何をしようとも、私の凡ての行為は選かれ早かれ忘れられてしまつて、私自身も居なくなるだらう。それならぼ何故物事に齷齪(あくせく)とするのだ 何故 人々はこれを見て、しかも生きて居れるのだ?人生が我々を酔わせてゐる間だけは生きることが出 來る。我々が再び醒めた時、それが凡て迷妄でありやくざなものであることを見るのである。実にそれは可突しいことでも面白いことでもない。それはた残酷な無意味なものである。


 If not today, then tomorrow sickness and death will come (indeed, they were already approaching) to everyone, to me, and nothing will remain except the stench and the worms. My deeds, whatever they may be, will be forgotten sooner or later, and I myself will be no more. Why, then, do anything? How can anyone fail to see this and live? That's what is amazing! It is possible to live only as long as life intoxicates us; once we are sober we cannot help seeing that it is all a delusion, a stupid delusion! Nor is there anything funny or witty about it; it is only cruel and stupid.

 

ネーゲルが取り上げている人生の無意味さ、不条理さについての気分をよくあらわしている。 
 ネーゲルの論文に戻ると

Another inadequate argument is that because we are going to
die, all No suggestions off in mid-air: one studies
and work to earn money to pay for clothing, housing, entertainment, food, to sustain No suggestions
a family and pursue a career-but to what final end?

あくせく毎日働いているが、それが何になるというのだ?と。死ねば、すべて奪われて、あるいは、すべて泡のごとく消えゆく運命じゃないか、というわけでしょうね。

 しかし、

There are several replies to this argument. First, life does not consist of a sequence of activities each of which has as its purpose some later member of the sequence. Chains of justification come repeatedly to an end within life

 しかし個々の活動はそれぞれ目的がありその目的にそった正当化ができるものである。全体として意味があるかどうかに関わらず意味がある。例えば、受験に合格するために勉強するというのは合格するために意味があるのであって、それから、どうなるか、わからないからといって個々の活動の意味がなくなるわけではない、と。

Yet humans have the special capacity to step back and survey themselves, and the lives to which they're committed, with that detached amazement which comes from watching an ant struggle up a heap of sand. Without developing the illusion that they are able to escape from their highly specific and idiosyncratic position, they can view it sub-specie aeternitatis , and the view is at once sobering and comical.

 ところが、人間というのは立ち止まって個々の活動に従事している自分の視点から外部へ抜け出して、「待てよ、おれのやっていることはー永遠の相のもとでもーー意味があるのかどうか」と改めて問うことができる。 「合格するために」勉強しているのは合格するために、それでいいとして、合格するって意味があるのか?・・・・より大きな文脈でみると、付された意味に疑問符がつく。

 ちっぽけな自分のことだけ考えているからそうなるのであって、自分の活動がもっと大きなプロジェクトに役立っていると思えばいいじゃないか?という人がいるかもしれないが、例えば、宇宙人が生食用に人間を育てているとして、たしかには自分の肉を増殖する活動は宇宙人に役立っているかもしれないが、しかし、自分にとって意味があるとは言えない。

 同じことはこれが、神の計画だって言えるー神にとって意味があったとしても、自分にとって意味があるのかどうか?


.The only way to avoid the relevant self-consciousness would be either never to attain it or to forget it neither of which can be achieved by the will. 

On the other hand, it is possible to expend on an attempt to destroy the other component of the absurd-abandoning one's earthly, individual, human life in order to identify as completely as possible with that universal viewpoint from which human life seems arbitrary and trivial. (This appears to be the ideal of certain Oriental religions)...


The final escape is suicide....

Camus-not on uniformly good grounds-rejects suicide and the other solutions he regards as escapist. What he recommends is defiance or scorn We can salvage our dignity, he appears to believe, by shaking a fist at the world which is deaf to our pleas, and continuing to live in spite of it. This will not make our lives un-absurd, but it will lend Them a certain nobility.....

 .If sub specie aeternitat is there is no reason to believe that anything matters, then that doesn't matter either, and we can approach our absurd lives with irony instead of heroism or despair.


 人生の無意味さ、不条理さに対処するには、超越的視点に立たないようにするか、宇宙的な視点に立って個人の生活を捨てるか、あるいは自殺するか・・・・カミユも人生の無意味さを見抜いていたが、しかし、自殺は逃避にすぎない、として避けた。彼は無意味な世界に対して、 反抗的、侮蔑的な態度をとって生き続けることを説いた。だからといって、不条理なものが不条理でなくなるわけでもない。

 ネーゲルとしては、永遠の相においては一切が無意味に帰す、というなら、しかし、無意味だ、という命題も無意味であり、われわれは不条理な人生について絶望よりも皮肉で対処することもできるのではないか、と。

  トルストイにまた、戻ると、トルストイは、対処法として、
p56- 1)人生が無意味であることをみとめないこと、2)人生が無意味であることを知って、享楽におぼれること 3)自殺することで虚しく、不条理な人生に終止符をうつくこと、4)死ぬこともできずに、価値のない人生をダラダラと生きること、あるいは、5)信仰の道を歩むことである。
 そして、信仰とは、

  p72 。信仰は生の力である。 若し或る人が生きて居れば、その人は何かを信じてゐるのである。もし彼が、その爲めに生きるべ き何物かあるのを信じないならば、彼は生きようと欲しないだらう。もし彼が有限物の非実在性を 見もせず解しもしないならば、彼は有限物を信じてゐるのである。もし彼がその非実在性を見るならば、彼は無限を信ぜねばならない。信仰なきところに生活はない。

 Faith is the force of life. If a man lives, then he must have faith in something. If he did not believe that he had something he must live for, then he would not live. If he fails to see and understand the illusory nature of the finite, then he believes in the finite; if he understands the illusory nature of the finite, then he must believe in the infinite. Without faith it is impossible to live.


 面白いのはネーゲルにせよ、トルストイにせよ、「永遠の相のもと」、とか、”universal”とか”ーーー「宇宙的」と訳したが「普遍的」でもあるーーー「無限」といった視点から個人とか人生を眺めることに言及しているわけですね。 個人の死を超越してそれ以上先へ行けないもっとも包括的な視点だね。

 ネーゲルやトルストイがどう言うかわからんけど、その視点に立って個人の活動 を cosmic dance とみると・・・これはまた一つの宗教的見解になってくる。

 



0 件のコメント:

コメントを投稿