Why an Armistice Offers the Best Hope for Peace in Ukraine
どうなるかな?
1)前にも引用したが、蕨市の犯罪率は特に高くない。埼玉のクルド人は、トルコのど田舎部族が
— buvery (@buvery) July 9, 2023
日本へのビザ免除渡航
難民申請して無限に居座る
不法就労・違法操業
という『金の卵を産む鶏』を見つけてしまったために人口集中が加速し、かつ、粗暴で自制心がないため犯罪が溢れてきたのが現状だと思う。
このまえ🐱野尻美保子(リセットさん)@Mihoko_Nojiriさんが、引用していた曲だな。TikTokにアプされていたわ。@02ix3_miyuki #中島みゆき #蕎麦屋 #コンサートツアー #縁会 #2007 #希少映像 ♬ オリジナル楽曲 - miyuki_nakajima
グレート・ギャツビー・カーブ米国はこういう幻想を抱かせて搾取することによって成り立ってる国ではあると思う。 https://t.co/zzd2Xc7dfG
— Ken McAlinn (@kenmcalinn) July 9, 2023
By The Spirit Level, Wilkinson & Pickett, Penguin 2009., Attribution, Link
集団的発作みたいなもんなんか?日本のメディアは韓国の「デモ」を「民主主義の証」のように讃え、評価する、羨ましがるが、実態を見てないか歪曲してる
— 崔碩栄 (@Che_SYoung) July 9, 2023
2008年の「米国産牛肉輸入反対デモ」の写真。今の福島処理水のように政府に抗議したが、煽動による付和雷同の結果だった。しかし今だに自分の愚かさを反省する人は1人もいない🤔 pic.twitter.com/LQYKhSn926
05:42 that if you have 20 Kings let's say and you took the thing that was most king-like about each of them and then you combined it into a single figure then you'd get a single figure of transcendent heroism of transcendent good and it's a tenet of the jungian School of Psychology let's say that that figure of transcendent good is symbolized by the image of Christ and the purpose of that image is so that even the tyrannical King has someone to bend his knee to and that's absolutely vital I mean does 06:20 you don't have to approach it from a religious perspective although you inevitably do because when you speak of things at this level that's what happens but you need an image of the Transcendent embodied good to to serve as something that unites the great tyrants of the past it's something like that it's an emergent it's an emergent vision of embodied Unity and it's a psychological necessity it's a sociological necessity and I think it Bears very strongly on your question about why is it that people matter it's 06:53 the the the classic Western answer to that the judeo-christian answer to that is because you have a spark of divinity within you and that Divinity is a reflection of this Transcendent good and it's obligatory for me to recognize that in you and vice versa if we're going to inhabit the same territory without Mayhem peacefully and with the ability to cooperate now you might say well the mere fact that a Transcendent image is necessary as a uniting figure doesn't prove the reality of that image but I would say
07:33 well yes but it doesn't disprove it
Jordan Petersonが聖書を悲劇の中の悲劇として捉えたたきも思ったけど、この人の読み方だと、聖書の話は本当に起きた話として読まなくてもいいんだよね。ところが、この人は本当に起きたこととして読んでいる・・・なぜかなあ、と思うね、やっぱその伝統の重みというのは脱出するのは難しいのか・・・・・それはいいとして、イエス・キリストというキャラは過去の王様キャラの善いところを全部合わせて一つにしてしたようなキャラであって、どんな暴君でもイエスを前にして膝まづかざる得ないような善性、というか神聖さを備えたキャラなんだ、と。で、どんなに人間でも価値がある思えるのは、どんな人間にもその神聖さを備えているものとしてみることが人間としての相互の義務なんだ、と。
一つ前の投稿で「人間をゴミのように扱うのと同時に神を崇拝することはできない」、という言葉があったけど、このようにすべての人間に神性や仏性をみていく、というのは宗教では珍しくない。
神なき時代になってそれは人間の尊厳とか個人の尊厳とかいわれるようになったけど・・・元を正せば・・・経緯からすれば、それは、神性や仏性みたいもんだね。
神も仏もない時代にその尊厳の根拠はなにか、というと・・・実は、案外難しい哲学的な問題になる。
覚の宗教 八木誠一 久松真一2:20生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。
2:20 I have been crucified with Christ, and it is no longer I that live, but Christ living in me.
右の言葉において「私」は二義的である。「私」は、キリストと共に十字架につけられて死に、キリストが「私」の中で活きている、それが「私」が「私」であるということだ、とパウロは言うのである。さて「私」は死んでキリストが「私」の中で活きているというとき、キリストが「私」存在の真の主体なのである(同様にョハネ一四·一Oでは、キリストが語るということは、キリストの中で父なる神が行為していることだ、と言われている)。他方、個的、肉的存在としてのパウロの「私」は、キリストを信ずる信仰によって生きる「私」、つまりキリストから区別される「私」なのである。
「私」には二重性がある。ひとつは肉的個的存在ないし分別的自己としての「私」(「キリスト」を信ずる「私」)であり、ひとつはそれを超えつつ、この「私」の真実の主体としての「私」(=「キリスト」)である。この「私」(個的自己の真実の主体)は、真実の主体である以上、一人称的であるが、個的な私からみた場合、同時に三人称的である(二人称でもあり得るが)。つまり個的肉的分别的自己の真実の主体は、個的自己にとつて、一人称即三人称という構造であらわれる。p278 覚の宗教
で、ヒンズー教の真言
you are thatyou are it"That's how [thus] you areI am that
とかいろいろに訳されるけど、
there is the experience of the brahman, which goes beyond the distinction of the subject and the object and which is articulated in such famous mahavakyas (great sentences) of the Upanióads as “I am he” and “thou art that.” Knowing the brahman, according to the tradition of Advaita
p683 encyclopedia of philosophy macmillan Ronald Borchard brahman の項
I am he
と訳される場合もあるわけだね。
宗派の人たちは細かい違いを指摘するんだろうけど、なんか、仏教、ヒンズー教、キリスト教が繋がって感動したな。
因みに廣松渉も「私」の2重性を認めるが、大きい私のほうは、”Das Man”か「われわれ」を錯認したものとみるかもしれないな、と思っている。
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