We are, in the final analysis, neither structure nor chaos. Each of us is instead best understood as a process—as a living, dynamic process: as the very process by which what we know (what we know so insufficiently) is transformed into what could yet be. That is the process by which our continued forward movement through life is constantly and inevitably dependent. To understand that, and to welcome it: that is voluntary acceptance of the necessity of eternal transformation, as an alternative to nihilistic despair or desperate and fatal identification with the state. This is the idea enacted during the ceremony of the Christian eucharist. Incorporation of the body of Christ is the symbolic transformation of the participant—not into a believer of a set of facts, religious though those facts may appear, but into the active imitator of Christ; into the person willing to undergo whatever death is necessary to bring about the next and better state of being; into the person willing to embrace his or her confrontation with the tragedy and malevolence of life, to learn from that process of embrace and to move one step closer, in consequence, to the eternally-receding City of God.
自分とはプロセス、過程であり、イエスのように死や犠牲、悲劇をも積極的に受け入れて再生しいく存在になるというのがユーカリスト の意味である、と・・・いうことでしょうね。
荘子の大宗師篇に「鶏になって時を告げよ」でちょっと有名な次のような一編がある。
・・・子輿が病気になった。手配が見舞いに行くと、子輿はこういった。
「造物者というのは偉大なものだな。わしをこんな曲がりくねった身体にしてしまったよ」・・・・
「いやいや、わしはいやだとは思わないよ。もし造化のはたらさがだんだんにひろがって、わしの左の肘を鶏に化けさせたなら、ひとつ鶏になって時を告げてみようではないかoまたもし造化のはたらさが次第にひろがって、わしの右の肘をはじき弓に化けさせたなら、ひとつふくろうのあぶりものにでもありつこうではないか。また造化のはたちぎが次第にひろがって、わしの尻を車輪に化けさせ、わしの心を馬に化けさせたなら、ひとつそれに乗ってみようではないか。馬車の世話にならなくてすむよ。
・・・
こんどは、子来が突然、病気になった。息もあえぎあえぎのありさまで、いまにも死にそうである。・・・・
そういったあとで、入口の戸のそばに立ち、千乗に話しかけた。
「偉大な造化者よ。いったいかれはお前を何に変えようとし、お前をどこへ連れて行くつもりなのだろう。お前をねずみの肝にでもかえるつもりか、それとも虫の肘でもするつもりか?
造物者というのは英語ではcreator になる。造物者という一者を自分とは別に立てているようにみえるところが気に入らないのですが、とにかく、これも自分を一つのプロセスとみている。
そして、虫の肘やネズミの肝になってやろう、という・・・全然高尚でない存在者にでもなってやろう、というところがいい。
キリスト教は世界を道徳的枠組みで再構成しちゃっているので、キリスト教的な発想だといくらプロセスといっても、進歩する、みたいな、あるいは死と再生を繰り返して、学習して、良くなって精神的に成長していくみたいなイメージを彼らは持っているように思うんですがー(上記文章でも、to bring about the next and better state of being より良き状態への移行のためにとある)ーーー、同じプロセスでもこちらは鶏やネズミ、虫ですよ。
プロセス、流れに従って、あるいはながれそのものになって、自分は今度は鶏に、あるいは鼠に、あるいは虫に、なっていこう、と。正確には鼠ではなく鼠の肝、あるいは虫の肘ですよ。こちらのほうが可能性に対してより制限がなく、融通無碍。今度なるとしたら、天使ならいいな、ネズミは嫌だな、ネズミの肝ならもっと嫌だな、とかいう自然から隔離した人為的価値からも自由。プロセスである自分には実体的な人格とか、魂とかがあるわけではなく、特定の「なにか」では全然ない。運命を引き受ける主体なんだけど、実体も本質もない・・・そこらへんが道教とか仏教的な発想のおもしろところだと思う、わたしは。
イエス・キリストのように悲劇を迎い入れて死んで再生した先が虫の肘だった・・・それもよし!というのが荘子的発想で・・・・キリスト教もニーチェの超人も及ばない境地じゃないかな、と。
ちなみに、キリスト教に影響に与えたであろう「死と再生」の物語というのは
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