2022年12月6日火曜日

”Jesus said, Split a piece of wood, and I am there. Lift up the stone, and you will find me there.”

 

 
 The Origin of Satan - Professor Elaine Pagels 

これも面白かったなあ。

 この教授はイエスは実在しなかった派ではない。ただ、主流の教会の解釈とは異なる解釈をしているもよう。

 信者が悪魔の話をするときには、実は地上の人間についての話をしているんだ、と。そして、初期のキリスト教の場合、それはユダヤ人だった、と。

ヨハネの福音書 8-44
あなたがたの父は悪魔です。悪魔の子が悪魔の悪い行いを喜んでまねても、不思議ではありません。悪魔は初めから人殺しで、真理をきらっています。

ユダヤ人についてのイエスの言葉である。

キリスト教信者はローマに反対するユダヤ人反対勢力と見られており、ユダヤ戦争の後だったので、自分たちをユダヤ人と一線を画する必要があった、と。

それはいいとして、教会によって否定された初期キリスト教の教えーー 40分あたりから、天国も終末も比喩なんだ、と。

そして、神について
 
そして彼のまわりに輝きがあった。 28 そのまわりにある輝きのさまは、雨の日に雲に起るにじのようであった。主の栄の形のさまは、このようであった。

それは光であり、輝きであるというような形容をしている、と。また、教会に排除されたトーマスによる福音書では、 

Gospel of Thomas (Translated by Thomas O. Lambdin)
(77) Jesus said, "It is I who am the light which is above them all. It is I who am the all. From me did the all come forth, and unto me did the all extend. Split a piece of wood, and I am there. Lift up the stone, and you will find me there."

 木を切ればそこに、また、石を持ち上げればそこに光であるイエス・キリストがいるんだ、と。

 こうなると、汎神論だね。すべての内奥に聖なるものが潜在しているんだ、と。ここらへんになるとハイデガーや日本の宗教にも通じるものがある。

教会も神父も要らないーー正統派のキリスト教教会が否定排斥せざるえない所以である。


 

いい映画だと紹介されていたから見てみたけど・・・・これもいい映画だったなああ。

日本のアニメ、恐るべし。 

 buvery Retweeted 実物、実写でなくても公共の場で性器の露出が憚られるなら、これも禁止すべき、ということになる。 


自由意志の問題について
経験的・観察的な事実の問題 として、 人 は〝 同じ〟 幕場的情況 に あっ て、 一定 の 幅 の 埒内 に こそ あれ、〝 異なる〟 行動 を 現に 示し ます。 なるほど、〝 同じ〟 情況 という のは 粗雑 な 認識 の せい で、 情況 同定 の 精度 が 上がれ ば 現出 する 行動 もより 限定 的 な 幅 に 納まる かも しれ ませ ん。 しかし、「 同じ」 情況 では「 同じ」 人物 は「 同じ」 行動 を する 筈 だ という のは、 外 挿 的 臆断 で あっ て、 経験 的 には 確定 の 仕様 が あり ませ ん。 時間 的 経過 が ある 限り、 絶対的 に 同じ 情況 に 絶対的 に 同じ 人物 が 位置 する こと は そもそも 現実 には 不可能 です。 そして、 経験 的 観察 の 教える ところ、 人 は〝 同じ〟 幕 場 的 情況 に あり ながら、 一定 の 幅 の 埒内 において では あれ、〝 異なる〟 行動 を 示す 場合 が 現に あり ます私 ども は、 この 経験 的 観察 レヴェル に 即する かぎり、 実践 論 の 次元 において は、〝 行為 の 選択 的 自由 性〟 を 立論 する のを 妨げ られ ませ ん。 また、 或 る 情況 で 或 る 行為 を おこなっ た 人物 の 責任 を 追及 し、 負 の サンクション を 加える こと によって、 その 人物 が〝 同じ〟 情況 で 前回 とは 別 の 行動 を 体現 する よう に なる 場合 が 現に ある こと、 この こと をも 経験 的・観察 的 に 折々 に 確認 でき ます。 存在論 上 もし 決定論 が 正しい として も、 そして、 責任 追及 行動 や サンクション 行動 も 決定論 的 必然性 の しから しめ た もの で あっ た として さえ、 経験 的・観察 的 な 次元 では、 責任 追及 や サンクション は 有効 で あり、〝 同じ〟 情況 下 での〝 同じ〟 人物 の 行動 を 以後 は〝 変更〟 さ せ〝 矯正〟 する 効果 を もつ と 申せ ます。   こうして、 私 ども は、 実践 論 の 次元 では、 行為 の 選択 的・自発的 な 起動 を おこない 得る 主体 で ある もの として 個体 的 人物 を 遇 し うる 次第 です。
廣松 渉. 新哲学入門 (岩波新書) (pp.183-184). 株式会社 岩波書店. Kindle 版. 

  先刻来の 「自由意志」をめぐる当座の論件に関して暫定的に閉じるべく言えば、人は無制約的自由でこそなけれ、 たしかに「選択的自由」ならびに 「自発的自由」を思念的に覚識しているが、この "意識的事実〃は必ずしも「撰択 的・起動的な作用を発揮する心的エージェント」「自由意志」なる格別な存在の実在性の認識根拠ではない。しかし、このことは決定論を正当化するものではなく、客観的偶然性が許す限りでの「非決定論」を許す。但し、請う所の「客観的偶然性」は「心的エージェントの自己原因的自発性」に負うものではない。われわれは「精神的自発性」「精神の自己原因的自由性」を論拠とするたぐいの非決定論・自由論には与みし ない。いわゆる主体的意志行為の主体なるものは、「撰択的・自発的な自由性・起動性」の覚誠の帰属する存在ではあっても、行動の機制としては(意識性を〃随伴〃すると否とに拘らず)専ら神経生理学的に統御される活動機構体であればひとまず足りる。 
存在と意味 第2巻 pp411-412 . 

 要するに、例えば、わたしが腕をあげた、とすると、私の行動について、「異なった行動もとれた」ー例えば「腕をあげないこともできた」と第3者も思うし、わたし自身も「別に腕をあげないでいることもできたが、あげた」という思いを伴っている、ということ。 
 このとき、時点T1での神経生理学的に統御される活動機構の状態C1がわかれば、一義必然的に時点T2での神経生理学的に統御される活動機構C2の状態もわかる、という決定論の立場と、決定されない、という非決定論の立場がありえるが、他の仕方でも行動できた、という意識を伴っているからといって、そのような主体が実体的存在するとはかぎらない。しかし、そのような主体が存在しないからといって決定論が正しいというわけでもない。かといって、C1と後に自由な精神が介在することで、C1からC2が一義的に決定しない、という説にも与しない、と。
 
ーーここらへん、非常に面白い

If the total state of the brain at t1 is sufficient to fix the total state of the brain at t2, in this case, and in all relevantly similar cases, then neither Paris nor any of us has free will. If that is how it works, so to speak in the plumbing, then free will is a massive illusion. If, on the other hand, the state of the brain at t1 is not causally sufficient to fix the state at t2 then, given certain crucial assumptions about the role of consciousness, free 
will is a reality.
Mind John Searl p229

こちらはサールの議論ですけど、サールは廣松が「神経生理学的に統御される活動機構」というところを脳に限定している。そこらへん、廣松と異なりなりますけど、ありえる可能性として、
1)脳の状態1→決定→脳の状態2
2)脳の状態1→非決定→脳の状態2/脳の状態3

という、2つの可能性が考えられるんだ、引用した文章の後に議論が続いている。
 しかし、脳のレベルで量子力学的な非決定論を持ち出すのはちょっと無理があるんじゃないか、と。
もっとも、仮に1)だとすると、われわれに自由意志はない、ということになる。「他の仕方でも行動できた」という意識は幻想っlすぎない、ということになるが、しかし、進化論的にいってそんな意識を発達させる必要はないじゃないか、と。

We really do not know how free will exists in the brain, if it exists at all. We do not know why or how evolution has given us the unshakeable conviction of free will. We do not, in short, know how it could possibly work. But we also know that the conviction of our own freedom is inescapable. We cannot act except under the presupposition of freedom.p234

 ここらへんが限界で、大抵の場合、自由に行動しているという意識を伴って行動していが、進化論的にいってそうした意識がたんなる幻想だともいえないが、しかし、我々に自由な行動が可能だとして、脳なり神経生理学的に統御される活動機構がどういう仕組で自由を可能にしているか、それはまだ、わからんのだ、と。







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