2022年12月9日金曜日

”Kadosch Kadosch Kadosch ”



先日見つけた動画の澤井義次さんのオットー論に興味をもったので図書館に頼んでみた。

ルードルフ・オットー 宗教学の原点 澤井 義次
モロッコの沿岸都市モガドール(現在のエッサウィラ)において、あるシナゴーグでの礼拝の経験をとおして、オットーの「聖」概念が誕生したと言われる。そこでの「聖なるかな」の三唱に深い感動を覚えたことを、次のように記している。
時は安息日。とてつもなく汚い暗いポーチですでに、私たちは祈禱の「お祈り」と聖書朗読を、シナゴーグから教会やモスクに伝えられた、あのなかば歌うような、なかば唱えるような鼻音の詠唱を耳にしていた。美しい響きで、ライトモチーフのように交互に入れかわり続く規則的な明確な転調と抑揚が容易に聞き分けられる。一語一語言葉を解き分かち意味を理解しようと、耳ははじめは無駄骨を折つたが、もうそんな徒労を断念しようとしたその矢先、突然声のもつ れが溶け-荘厳なおののきが五体を貫き-一斉に、澄んだ声で、きっばりとはじまる。

 

Kadosch Kadosch Kadosch Elohim Adonai Zebaoth/Male'u haschamajim wahaarez kebodo!

 

(聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ!)
P55 ルードルフ・オットー 宗教学の原点 澤井 義次

最後の詠唱は英語だと

Holy, holy, holy is the Lord God of Sabaoth. Heaven and earth are full of his glory! 

となるらしい。




例のごとく、Youtube で解説がないかとみると、

 

 Experience: Two Classic Perspectives (James & Otto) 

 James

ジェームスの宗教経験の諸相との比較もあってありがたい。


Otto and the Numinous
便利だよなあ。

ヌミノーゼ(Numinöse)とはドイツの神学者ルドルフ・オットーが定義した概念である。オットーは「聖なるもの」のうち合理的な理解にかなう部分を除けた概念をヌミノーゼと呼んだ。

 宗教体験の多くはその体験そのものにその宗教の教義を忍ばせているものが多いが、そういったものを除いてもすべての宗教に共通な原初的な体験があるんじゃないか、というわけでしょうね。

2つ目の動画の批判に注目。。

1)概念があいまいなので、非宗教的な「畏れや驚異」 と区別がつかない

2)言葉では言い表せないものなら、宗教間での批判も不可能。

3)宗教経験で啓示などは言葉で言い表されるが、言葉で言い表せない宗教体験だけを重要視した理由が不明。

また、ヒンズー教の原初的宗教体験は絶対他者性の体験ではなく、むしろ一体性の体験。オットーのヌミノーゼの特徴とはずれるのではないか、と。

(ただ、この点は澤井さんの本によるとオットーは 神の神秘主義/一体感の神秘主義 と 魂の神秘主義/内観の神秘主義(pp206-207)という具合に神秘体験を2種類にわけてヒンズー教の原初的体験も許容していたようではあるーーキリスト教が最高 みたいな評価は欧州人特有の偏見だろう)



Otto’s theories regarding the numinous have been extremely influential in the development of the academic study of religion in the 20th and 21st centuries, as evidenced by the impact they had upon scholars such as Carl Jung, Mircea Eliade, and Ninian Smart, whose works were instrumental in the formation of religious studies as a discipline

エリアーデなんかにも影響を与えたわけだね。

で、そのエリアーデの「聖と俗」

 
 A lecture on Mircea Eliade's The Sacred and the Profane: Space  

 UULA Adult RE: An Introduction to Religious Studies Part 2.2, Mircea Eliade  

 





聖体示現
聖なるものの現れ。

顕現体験
神や仏のような存在や、抽象的で目にっっっlっjは見えない事柄が、目の前に具体的な姿をとって立ち現れることを「顕現」「顕現する」と表現します


 聖なる場所、聖なる時間があり、出エジプト記 やキリストの誕生、最後の晩餐とか、洗礼とか、その場所、その時間で、そのイベントの参加者たちによって再演されるわけだね。

・・・オットーのヌミノーゼに興味をもったのはそれを経験した人は人生の意味や価値について神秘的に了得するところがあるように思えたからだ。

 ここまで見てきて、「なるほどな」、と思ったのは宗教というのはやっぱ、自分や自分の人生に意味を与えているんだな、と。

「自分は誰でどこから来てどこへいくのか?」

 エリアーデの人間たちは神話と同化することで役割と意味を与えられ、オットーの場合は、絶対的な価値である神との合一ないし神への服従によって自分の役割・意味をみいだすのだろうな、と思う。

 キリスト教信者はイエスのように殉教することにも意味と価値を見出すのだ。(Elaine Pagels the gnostic gospels 4章 

The Passion of Christ and the Persecution of Christians 参照)

 ただ、宗教の危険なのは神からの啓示だね。

 そこに圧倒的、絶対な意味を見出す人がいるが、しかし、それで頭がおかしくなって殺人を犯してしまうこともある。

コンスタンティヌス1世

 
  In hoc signo vinces
The bishop Eusebius of Caesaria, a historian, states that Constantine was marching with his army (Eusebius does not specify the actual location of the event, but it is clearly not in the camp at Rome), when he looked up to the sun and saw a cross of light above it, and with it the Greek words "(ἐν) τούτῳ νίκα" ("In this, conquer"),[3] a phrase often rendered into Latin as in hoc signo vinces ("in this sign, you will conquer").[4] At first, Constantine did not know the meaning of the apparition, but on the following night, he had a dream in which Christ explained to him that he should use the sign of the cross against his enemies.

 イエスが夢にでてこの旗印で戦えば征服できる、と言った、と。

 本当にそんな夢をみたとしたら・・・自分の使命を確信できるだろうし、そんな夢は嘘だったとしても、その話は政治的に利用できる。

 そうすることで、虐殺は聖戦となった。

 正義とか愛とかのあらゆる価値の源泉となり、圧倒的なパワーを感じる絶対者との交流で自分の生死を超えた意味・価値を了得し、生死の不安から逃れ、自己犠牲も厭わなくなるかもしれないが、同時に、絶対者から命令という啓示=妄想がおきて、狂っているがーーあるいは、狂っているがゆえにーー、確信に満ちたテロリストまで生んでしまうこともある。

 以前、ジジェクが仏教徒がcosmic danceで、人殺しを肯定しているみたいな批判していたけれど、宗教というのは、善悪や合理性、有意味性を超越する領域にはいるから、やっぱやばい部分があるんだよね。

 宗教的言説や伝統の意義について全否定はしないが、しかし、統一教会のみならず既存の宗教についてもそうした部分はつねに警戒していたほうがいいとは思う。

 




 

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